私は、この言葉が好きだ。
「頑張る」と言う言葉は短いなかに力強い気勢を感じるからである。この言葉を意識し始めたのは15年ほど前からだ。子供達が大きくなるにつれ、励ましのつもりで連発し、設立40年の剣道スポーツ少年団の仲間に入れてもらい、きつい稽古の励ましに連発するようになって気にするようになった。
短いが相手を発奮し、共に気張ると言う気持ちで使っていたし、いつも共にだと思ってもいた。
そんな折、ある名の知れたマラソン選手が沿道からの声援で「頑張れ」と言われる事への嫌悪感を述べているのを見た。自分でこんなに頑張っているのに、他人から言われたくないと言うのである。それも判らなくはない、しかし、応援している人は自分もランナーになったつもりで一体感での発声であったろうに。
この言葉は、受ける者、送る者それぞれのその時その時の状況で微妙に感じ方が違うのかと考えされたものである。
そんなことがあるなかで、何を思いついたか辞書を開いた。
筆頭の訳が「我意をはる」とあった。辞書を見なくても「頑」一字を見れば気付いて良いはずであった。これでは共にではないのではないか。こんなことから、恋は盲目、勝手に「共に」と惚れ込んでいた私は大変なショックを受け、一時期禁句となった。単純なものである。
しかし、恋慕の情やみがたく、いつからかまたぞろ使い始めた。
年を重ねて、あちこちに不具合が意識されるようになり、「病は気から」で気を張らねばとの思いからか、自分を発奮するのに都合の良い響き、気勢を出せるからであろうか?
とまれ、共にではなく、我にとなってしまった。
そして、ショックなことにも気が付いた。要は体を動かすことしか能のない私の自己弁護だったのだと。共にであろうとなかろうと、ショックだろうと、自己弁護だろうと、私は好きなのだと言うことにも今日気が付いた。
さあ、試験が近い、得意の一夜漬けで頑張るぞ!!
平成17年9月 海宝 陽三